生きる意味を問われた

2017年11月06日

以下は、以下を綴る私が理解した概念を、今日の今までに覚えた言葉やその文脈に投影させたのちの記号に過ぎない。多々、敢えて断定にする。



そもそも「意味」という概念は人間に生まれつき備わっているものではない。故に、歴史上でも様々な分野で「意味」に値する全ての解釈は人間によって作り出されたものだと言える。これを読んでいるあなたも私も、納得できるものであればそれは意味になり得る。



まず簡単に、「死」に無意識にでも恐怖してしまう生き物とそうでない生き物がある。現代に生きる我々人間の多くはこの前者にある(眠りに就く時間は除く)。



生きる意味を作り出そう、または自分自身に当てはまるそれを探したいとする形態には「死」に恐怖する感情が根強く関わっている。生まれた途端に死んでしまうことが人生ならば、既に私たちはここにはいない。生れつき呼吸機能が与えられたように、言い知れぬ恐怖の感情もまた一つの生命活動の源である。



生まれた後、細やかにも人は「快楽」を覚える。例えば、息を止めると苦しくなるが、再び呼吸を始めるとその苦しみから解放される。これも小さな快楽である。苦しみは苦しみだと自分で認識できない場合が多いが、快楽を求める度に新しく苦しみや不安、食傷を見つけだしてしまう。快楽はあくまで苛まれる呪いのようなそれらから一時的に解放された状態である。



「死にたい」と思う苦しみを抱える人は、逆説的に「健やかに生きていたい」と思っている。本当に死にたいというよりは、その苦しみから解放されたいという快楽を求めている。ただ自分で自分を殺めるという選択はただの「無」への解放であって、快楽ではない。快楽は感じることによって初めてその意義を成す。



「親に自分を産んでくれなんて頼んでない」と言う人がいた。犬も鳥も魚も草も地球上に存在する生き物は皆、自分の意思で生まれたわけではない。なので「産んでくれなんて頼んでない」と不服交じりに言ったところで、それは自然の摂理の一つを要約しただけである。



私は生きる意味とは何かを説明したいわけではない。「生きる意味」という目的意識は全ての人に共通するものではないだけに、一口に解答したところでそれをその質問者に強いることはできない。自由が正義と謳う世界で、生まれるのも死ぬのも一人きりの私たちは、意味付けすることも一人でしなくてはならない。煩わしいだろうか。